主観は想像以上にバイアスまみれ
どんなに優秀な人でも、自分だけは絶対に客観視できない
その前提に立ち、どれだけ他人のフィードバックを受けられるか
主観と客観の差を埋められるかで、生きづらさが圧倒的に変わる
僕の具体例を2つあげてみよう
【目次】
具体例1:録画された自分の姿が残念すぎる現象
録画された自分の姿をはじめて見た時、
「え、自分普段こんな感じなん…?」
と涙目になったことはないだろうか?
声色、表情、身振り手振り etc…
頭の中で思い描いてた自分と、あまりにかけ離れている
2018年、僕はYouTubeに動画をあげるために、はじめてカメラに向かって話してみて愕然とした
表情は固いわ、滑舌は悪いわ、声に抑揚はないわ、謎に横揺れしてるわ…
正直目を背けたくなるひどい有様だった
一緒に見てる人にそう伝えると、「え?いつものなるとしじゃん」と一言
マジでか…
いつもオレこんな感じなのか……
どうりで中高時代「お前見てるとイライラする」といじめられるはずだ
主観と客観の溝は、マリアナ海溝よりも深いことを思い知った
それからは1つずつ改善を積み重ねていった
笑顔の練習をしたし、滑舌トレーニングもしたし、ボイトレにも通った
何度も録画しては見直し、横揺れしてる回数を数えた
6年経って2024年
自分が動画を撮ってる時の脳内イメージと、撮れた動画の姿が概ね一致するようになった
それに比例して、初対面でも「爽やかですね」と言われることが増えた
280人の前で2時間音楽のLIVEをして、盛り上げられるようになった
ラジオで40分以上話し続けても、「なるさんの声に癒されます」と言われるようになった
いじめられていた中高時代とは天地の差だ
我ながら、主観と客観の差を埋めることで生きづらさが減った好例だと思う
具体例2:自分が良いと思ったことほど評価されない現象
これまた2018年
落ちこぼれ会社員の僕は、なんとか現状から抜け出せないかとTwitterを始めた
大学生までは「飲みなう」みたいな誰の役にも立たないツイートしかしてなかったTwitter
世界に向けて本気で言葉をつづるのは初めてだ
張り切った僕は、三日三晩かけて渾身のツイートを作成した
「いきなりバズりまくってフォロワー爆増しちゃったりして…」
そんな妄想を繰り広げながら、おそるおそるツイートボタンを押す
………無音無風
気持ちいいくらいに反応がない
宇宙空間に投げ出されたかと思った
ツイートできてないんじゃないかと思い、狂ったようにスクロール更新してみる
何時間経っても、いいねは相変わらず0である
恥ずかしすぎるから、そっとツイ消しした
「そんな甘くないよなTwitterも…」
良い意味で諦めがついて、それからは3分くらいでテキトーにツイートするようになった
自分が良いと思えなくてもとりあえず出す
「しょーもないこと言ってんな〜」と思いながらも、とりあえず出す
そんなことを続けて1週間ほど経ったある日
なんの気なしにTwitterを開いたら目を疑った
いいねとフォロワー増加の通知で溢れ返っていたのだ
当時はフォロワー100人もいなくて10いいねも超えたことがなかった僕
その時は50いいね以上ついていて、おったまげた
どうやら自分の「良い」という感覚と、他人の「良い」という感覚は、水星と冥王星くらい離れてるらしい
なんてこった
20年以上勘違いして生きてたよ
それからは距離を縮めるべく、繰り返しツイートした
結果、今では4000人以上の方にフォローしてもらえるようになった
いいねも以前よりいただけるようになった
本当に有難いことだ
それに比例して、現実世界でも話しててスベッたり、相手を退屈させることがずいぶん減った
平たくいえば、人間関係が良好になった
相手の「良い」という感覚を掴めるようになったからだと思う
これも主観と客観の差を埋めることで、生きづらさが減った好例だ
人目に触れるアウトプットをすることでしか、主観と客観の差は埋まらない
ここまで話した通り、主観と客観の差は想像以上に開いてる
誰しもそうだ
「自分のことは自分が1番わかってない」と思った方がいい
その差を埋めることで、生きづらさは間違いなく減っていく
ではどうすれば埋められるのか?
人目に触れる本気のアウトプットをするしかない
他人や社会から評価される中で、今出せる全力を出し尽くす
それに対するフィードバックを真摯に受け止める
何が良かったのか、何が良くなかったのかを綿密に振り返る
その繰り返しによって、主観と客観の差は確実に埋まっていく
けどこれは茨の道だ
全力の自分に対するフィードバックを受け止めるのは、本当にしんどい
否定的なことを言われて傷つくこともある
改善しようがないことを言われて絶望することもある
主観を信じていれば、脳内イメージの中で傷つかずに生きていけるのに
こんな大変なことをする必要ないんじゃないか?
差を埋めようとする方が、むしろ生きづらいんじゃないか?
この文章を書いてて、そんな疑問が湧いてきた
同じように感じている人に、以下のことを伝えたい
主観と客観の差を埋める過程は、大気圏を抜けるのに似ている
SF映画なんかで、スペースシャトルが大気圏を抜けるシーンをイメージしてほしい
ものすごいGがかかって押しつぶされそうになる
けれど、大気圏を抜けたらどうか?
一気にGはなくなり、スペースシャトルはフワフワと勝手に進んでいく
主観と客観の差を埋める過程はこれに近い
フィードバックを真摯に受け止め、改善する過程はまさに大気圏だ
Gがエグすぎて押しつぶされそうになる
けれど、一度差が埋まってしまえば一気に楽になる
がんばらなくても成果が出て、人から感謝されて、人間関係も円滑になる
フワフワしてても勝手に進んでいくスペースシャトルのようだ
生きづらさという名の重力から解放される
おかげで僕も随分生きやすくなった
とはいえ、みんながみんな大気圏突破を目指す必要はないと思う
主観の中で生きていくというのは、地表でまったり暮らすのに近い
それはそれで大いにアリだと思うのだ
大気圏を突破しようとして潰れてしまうリスクだってあるのだから
いずれにせよ、どちらの選択肢も知った上で、意志を持って決めることが大切だと感じている
だから今日は長々と体験談を綴ってみた
僕はこれからも大気圏突破を目指します
僕もまだ完全に大気圏を抜けた訳ではない
いまだに主観にとらわれて意味不明なツイートをすることもある
深夜にそっとツイ消ししてるのは内緒だ
もしかしたらこの長文ツイートもその1つかもしれない
それでも僕は、これからも大気圏突破を目指す
生きづらさのない世界を見てみたいから
お客様もそんな世界まで連れて行けるようになりたいから
それでは、ぼちぼち行ってきます
あなたも良い旅を
心から健闘を祈ってます
長文を読んでいただき、ありがとございました!
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